松尾一彦さんを迎えて 木下正三
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松尾さんは元オフコースのメンバー、ギターとボーカル、さらに作曲を担当していた。
オフコース解散後も吉田拓郎さんのツアーに参加したり、作曲家としてたくさんのボーカリストに楽曲を提供したりと、大活躍だ。
ドラムの大間ジローさんやベースの清水仁さんと結成したABCというバンドもあります。
僕は1980年頃、立ち寄ったスタジオやリハーサルスタジオでお会いしたのが初めです。
特に1982年は武道館10日コンサートを成功させるなど、(実際は10日間やってもまだチケットが手に入らない人がいっぱいの大事件だった)あの頃オフコースはのりにのっていた。
最初の一音で、観客は総立ちだった。僕も洋子も慣れていなかったから、何となく座っていたが、前が見えないからやはり立つしかなかった。するとこの方が楽しいんだ。観客の大声援に負けないように、音も大きかった。
日本の音楽も「ニューミュージック」と呼ぶジャンルが登場、ビートルズを起点とした洋楽的なアプローチで浸透、そんな中オフコースは時代を代表するグループだった。
1980年"We are", 1981年"Over"とつづいてオリコンNo.1。その後も100万枚を越えるアルバムがつづく大活躍だった。
それこそ上昇志向にあった音楽界、しかもライブとレコード重視のニューミュージックだから、いい音に対する熱望は今と比べものにならない状況だった。
そこに僕がTADとレイオーディオをひっさげて登場したわけです。
外国では1979年のイーグルスが初めての成果だったけれど、日本ではオフコースだった。
オフコースが僕と提携関係のようになったのは当時6人目のオフコースと呼ばれていたマネージャーの要さんの存在が大きい。
富樫要さんはその大きな目と同じように、極めて大きな好奇心と人なつこさを持っていた。始めてあったときでさえ、大いにうち解けて音響上のいろいろな問題提起を聞いてくれた。
そこで生まれたのが仁さん用の「めちゃくちゃ大きな」ベーススピーカーであり、次いで「松尾もほしがっているんだよね」ということでギタースピーカー、さらに小田さん用のシンセスピーカーということで、
オフコースのステージ上スピーカーのほとんどや、オフコースカンパニー・スタジオにモニターも作らせてもらった。
これらの全面的デビューが1982年6月の武道館10日間コンサートだ。
その後しばらく休止したが、1985年にあった久しぶりのビッグコンサート「国立代々木競技場・第一体育館」の頃にはPAも大部分をレイオーディオ製が占めていた。
かなり強力なフラッシュを持ち歩いていたけれど、システムが巨大すぎて、思うような写真が撮れなかったのが悔やまれた程だ。
"We are Over" 以後はヤスさんが抜けたこともあり、いつ終わってしまうのかという不安感がファンを取り巻いていた。僕も一緒になってはらはらしたものだ。
1989年2月オフコース解散。ほぼ10年のつきあいだったが幸せな時代だったと思う。
1989年は僕もナッシュビルに滞在してスタジオを何軒も立ち上げたり、信じられないくらいの忙しさだったので、オフコースのことはニュースで知る程度になっていた。
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そしていつの間にかの25年、スピーカーと同じ順番で、初めは仁さんが、つづいて松尾さんと要さんがやってきた。当時よりずっとたくさん話ができた。そして実現したのがこのコンサートだ。
松尾さんと竹田元さんのデュオコンサートは僕や玲にとっても新しいチャレンジだ。ギター、ピアノは完全なアコースティック。ボーカルはオーディオを介する空間ミックスだ。
この芸術サロンでしかできない最高の音響を用意する。
武道館や、国立代々木競技場とは違った小さなコンサートだけれど、芸術サロンのコンサートはまた格別の、忘れられないコンサートになるだろう。
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